陽明学は、孟子の影響が強くうけており、
性善説の立場をとると言われる。

この性善説という表現、
とても誤解を生む表現だ。

性善説と聞くと、次のように言う人がいる、
「キレイごとだけでは、行かないよ」
「人はみんな良い人なんてあり得ない」


たしかに、
キレイごとばかりでは通らないし、
ヒトは、いつでも100%良い人だとも思えない。

私も、そう思う。

我が心を覗いてみれば、よくわかる。
しょっちゅう、悪いことを考えている。

あ”ー、ここでは書けないってことも、
1
日に何回も何回も考えている。
残念ながら。



でも、これは、

性善説の考え方に反していない。

性善説、

そして、性悪説とは何か?

《性悪説》とは、
人間とは根本的には悪人であるという考え方だ。

では、《性善説》とは何か?


人間の中には、誰にでも、
善の部分(良心)と利己的・悪(私心)の、

この2つがある。


そういう考え方だ。

人間は、可能であれば良心で生ききれるのであれば、
そのように生きたいと願っている。

ヒトの親になれば、

できることなら、子供には、

胸を張れるような仕事をしたいと思っている。

普段の自分の仕事を振り返ると、
これは子供には見せられない、
そう思うこともある。

出来ることなら、

いつでも、どこでも、どんなときでも

子供に見られても、

恥ずかしくない仕事をしたいと思う。

しかし、時と場合によって、
ヒトは、良心だけでは生ききれない、
そういう弱さ(私心)がある存在、
それが人であると考える。

それが性善説という考え方である。

性善説を、《性弱説》と表現されることがある、
実にぴったりな表現だと思う。


性善説という言葉は、
西洋哲学と対比して、東洋哲学を、
説明するときに使われる。


東洋哲学は、韓非子や孫子も含め、

 

人間には、

このような2面性があることを前提として、
どのようにすれば、人は幸せになれるのか?
それを考えてようとする。

西洋的な哲学は、
人が善なのか、それとも悪なのか、

はっきりと分けようとする。

東洋はちがう、

人にはどちらの部分もあるんだから、
善と悪にになんか、分けられないよ!

そう考える。

殺人犯だって、昔から悪い奴ばかりではなくて、
良い奴だった時代もあるし、
優しい部分だってあるんだから。

そんな風に考えるのが東洋的な性善説である。

何十年も水商売をしてきた、
場末のスナックのママの人間観のようだ。

実に現実的な考え方で、腑に落ちる。


〜陽明学で行こう
対人関係で、ひどい経験や挫折が重なると、
性善説ではなく、性悪説を信じたくなる。

例えば、自分に対して、
ひどいクレームを言ってくる人がいて、
ひどく傷ついたとする。

そんなときは、その人を悪人だと思いたい。
あの人は悪い人だから、
仕方がないのだと思いたい時がある。

実は、あの人は良い人なのだが、
私のやり方がまずくて、あんな言い方をしたのだ、
そうは思いたくはないものだ。

そんなとき、性善説で考えるとどうなるか?


あの人は、
何かむしゃくしゃすることが、

あったのかもしれないな、
だから、あんな風に言ったのではないだろうか?

もし、私がもっと違う対応をしていれば、
もっと違う状況になったのではないだろうか?

そのように考えれば、すこし気持ちは楽になるし、
そして、そのクレームは、

今よりも成長するチャンスとなる。

そんな風に考える。

 

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  考え方次第ですごいチャンスになる。