朱子学と陽明学の 違いを象徴する言葉に、

「性即理」と「心即理」がある。

 

この言葉の理解がすごく難しくて、

いろんな解説を読んだけれども、

なかなか腹落ちしない。

 

そこで、あくまで、

今、現在の私的な理解であると、

断った上で、説明を試みる。

 

 

王陽明は朱子学を批判したことで知られる。

朱子学と陽明学の違いを表す象徴的な言葉が、

 

朱子学の「性即理」に対し、

陽明学の「心即理」だ。

 

反対の言葉のように感じるが、

そうではない。

 

性即理の解説の中の一部を王陽明は否定し、

自らの説を心即理として表現した。

 

 

まず、朱子の性即理を説明してみる、

 

この世のすべては、

ある一定の秩序により成り立っている。

現代的な言葉でいえば、その秩序とは、

大自然の摂理といっても良いかもしれない。

 

これを朱子は性即理と呼んだ。

 

(この世の)性(あるがままの状態)を、

よく観察すれば、全て秩序立っているではないか。

それこそが天理だ。

 

この秩序(天理)は、

道徳的規範に通じるものだ。

 

 

だから天理を理解しようと思えば、

物事をしっかり研究していくことだ、

さすれば天理は理解できる。

 

なるほど、朱子はさすが、

歴史に残る天才的儒者だ。

わかりやすい。

 

そして、人間もその天理(大自然の摂理)に包含されるが、

人には、情(気・感情)がある。

 

人は、情によって行動してしまっているので、

天理から外れた行動をしてしまうのだ。

 

だから、人は、

世の万物に通ずる理をしっかりと学び、

情に流されず、

天理に沿って生きられるよう、

努めねばならないと言うのだ。

 

そして、それをこれまでに成し遂げた人がいる。

それが聖人·賢者だ。

だから聖人・賢者から、

しっかり学びなさいと、

そう朱子は言うのだ。

 

 

王陽明は、この朱子の解釈の後半部分に、

噛み付いた。

 

人間は、教えられずとも、

何が正しいかを知っているではないか?

 

困っている人が目の前にいれば、

手助けしてあげたいという気持ちがあるし、

(仁の心)

 

盗人だって、

自分が悪いことをしていると分かっている、

教えられずとも、分かっているだろう。

(義_是非を判断する心)

 

いわゆる良知は、教えられずとも、

元から人の心にあるではないか。

 

この良知こそが、理、

大自然の摂理そのものでないか。

 

人は、この良知に素直に、

正直に生きるように努めるべきだ。

 

理を外に求めるのではない、

自らの心の内に求めるべきだ。

 

これを王陽明は、「心即理」と表現したのだ。

 

 

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