陽明学というのは、
明治以降になって言われた名称で、
江戸時代には単に《心学》と呼ばれた。
心の学問、いわば心理学の側面もある。
心理学を理解しようとすれば、
どうしてもやらねばならないことがある。
自分の心と向き合うことである。
なぜなら、ヒトの心の本当のところは分からない。
信じることはできるが、
客観的に確認することができないからだ。
さて、性善説によれば、
人間には良心(良い心・利他心)と、
私心(悪い心・利己心)があるという。
俗っぽく言えば、
天使と悪魔の両方がいるということだ。
さて、自分の心を覗いてみれば、
悪魔のような自分、弱い部分は確かにいる。
今だって、食べちゃいけないと分かりながら、
おせんべいの袋を破ってしまっている、
あろうことか豆乳も一緒に飲もうとしている。
もう夜の12時前であるというのに。
仕事をしているときでも、
自分が貧乏くじを引かないようにとか、
損をしないようにとか、
そんな思いがいつも頭をよぎる。
自己分析をここでやめてしまうと、
自分だけが悪人だと思えて苦しい。
だから、人はみんな悪いモノだ。
性悪説を信じたほうが自分の心も楽だ、
そう考えたくもなる。
しかし、ここで心と向き合うのを止めず、
その先へと自己分析を進めないといけない。
問題はここからだ。
自分の中に《良心》を見つけることである、
これがなかなか難しい。
この性善説を唱えた本家本元は孟子である。
孟子はこのように説明する。
良心を言い換えると、
仁・義・礼・智と表現される。
仁とは、弱いものや可哀想なものに対して、
つい優しくなっちゃう心をいう。
例えて言うなら、
冬の雨の日の夕方、4、5歳くらいの女の子が、
傘もささず、一人で泣いている。
それを見ると、
ある人は「お嬢ちゃん、どうしたの?」と、
声をかけるかもしれない。
ある人は、交番まで連れて行くかもしれない。
独身時代の自分の場合、
こういうところは、すごくシャイで、
声をかけることをためらいながら、
何もせず様子を見ていたと思う。
人によって、どのような行動をとるか、
または見ているだけのひともいるだろうが、
兎にも角にも、何かしら気になるのだ。
とにかく気になり、どういう行動かは別として、
思わず何かしたくなる気持ち、
これを《仁》の心と表現する。
子供なんかは、わかりやすくて、
泣いている子供がいれば、
ちょろちょろとそっちを見て、
「どうしたの?」って声をかけてしまう。
そして、陽明学ではこういう、
行動するかどうかは別として、
「何かしたほうが良いと、
自分の心は知っている」というものを、
《良知》と表現する。
そして、何をしたらいいか分かっているのに、
それをしないとどこか気持ち悪い感じがする。
この不作為をしたときに気持ち悪さを感じる。
気持ち悪いと思うのは、
まさに仁の心があるからだ。
そして、逆に勇気を出して行動すると、
すごく清々しくて、気持ち良いという。
気持ち良いと感じるのは、
これもまた、仁の心があるからだ。
この良知に従って行動すると、
すごく気持ち良いぜ!と、
王陽明は言うのだ。
それを《致良知》と表現した。
~陽明学で行こう~
ある心理学の講座でこんなことを言っていた、
心理学が使える人、使えない人の違いは何か?
それは自分の心に向き合えるかどうかだと。
自分の弱い部分に向き合うのはとても勇気がいる。
それができて、他者理解ができると仰られた。
自分の中に怒りがあるとき、
どうして、自分は怒っているのだろう?
恐怖心があるとき、
どうして、自分は怖がっているのだろう?
そのように向き合うと、自分の弱さが見えてくる。
本当は、そういう弱い部分は否定したいし、
見せたくはない。
陽明学は、
自分の弱さと向き合い、自分の心を強く、
いつも清々しいものにしておこうという、
そんな目的をもった心の学問だと感じる。