中国の《明》の時代の軍人、王陽明。
彼は儒学(朱子学)や仏教、道教など、
東洋の哲学に広く精通していた。
彼は、それら東洋哲学の彼なりの解釈を、
慕ってくる後輩、部下、弟子たちに、
教え説いていた人であった。
陽明のおじいちゃんは地元の名士、
お父さんは科挙をトップで合格した人。
そんな超エリート家庭で、陽明は、
色々と思い悩みながら大人になっていく。
「俺は、何のために生まれてきたんだ」、
それこそ尾崎豊のように自分を哲学し、
そして、ときにグレたりもした。
彼は、自分は何者かを探し求め、
自己啓発系の書物を片っ端から読み漁る。
当時の自己啓発とは、
仏教であったり、道教であったり、
禅、朱子学であった。
陽明はこれらを咀嚼し、
自分なりの解釈をもつようになる。
彼の解釈は「わかりやすい!」と、
評判になり、多くの共感を呼んだ。
陽明の説く東洋哲学は、次第に、
「東洋思想の結晶」だとか
「東洋思想の華」と、
そう呼ばれるようになっていく。
彼の解釈した哲学が、
日本に上陸するのは彼の死後、
17世紀のことだ。
江戸期の日本、
彼の解釈した哲学は大流行する。
当時は「陽明学」という言葉は無く、
彼の説いた哲学は、単に「心学」、
そう呼ばれていた。
明治時代になって、
陽明の説いた「心学」は、
「陽明学」と呼ばれるようになる。
明治維新後、西洋文明を懸命に、
取り入れようとしていた時代、
日本的な良さが失われるのではないかという、
不安感・危機感が生まれていた。
そんな危機感を持った人たちが、
少し前の日本人が持っていた倫理観が、
失われないように、
「心学」と呼ばれた哲学に
「陽明学」というラベリングをした。
陽明学とは、
王陽明の解説した儒学の一つの解釈だ。
そこには、仏教、道教等の要素も盛り込まれた。
その解釈・解説は分かりやすかった。
軍人で実務家である陽明の理解は、
とても実践的なものであった。
日常生活、実務の場面で役に立ったのだ。
ちなみに「陽明学」は、
「朱子学」と対比されることが多い。
「朱子学」と全く反対の概念のように
思われそうだが、そうではない。
現代の陽明学の権威、難波征男教授は、
次のように言われる、
「朱子学は、陽明が生まれる500年前に
儒学が体系化されたものだ。
陽明は熱心に朱子学を学んでいる、
陽明は、当時形骸化していた朱子学を、
鋭く批判し、そして、
新たな解釈を持ち込んだ人であり、
決して朱子学を全て否定した人ではない。
朱子学がなかったら、
陽明学は生まれなかったはず」
王陽明の儒学の解釈は、
弟子たちの手によってまとめられる。
それが「伝習録」だ。
この「伝習録」、
17世紀の日本に持ち込まれる
ここに歴史の妙がある、
この頃日本は、江戸時代が始まったばかり。
これから平和が300年近く続く、
穏やかな時代のその冒頭に伝わった。
その平穏な環境の中で、
陽明学は、成熟進化を遂げていく。
江戸の初期、陽明学は、
近江国の誠実な若者の手に渡る、
彼の名は、中江藤樹。
内村鑑三が著書「代表的日本人」に
取り上げた人物である。
藤樹は、伝習録を
貪るように読んだに違いない。
没頭するあまり、
布団の中に本を持ち込み、
そのまま眠ってしまい、そして、
夜中にムクリと起きては、
また本を開いてみる。
そこには、これまで悩めど、
出口のなかった問いへの
答えが全部書かれている、
そのように感じ、彼は、夜昼なく、
貪り読んだ。
のちに陽明学に引き込まれた若者たちが、
皆、そうなったように、
彼もまた陽明学に夢中になった。
そして、彼は、
その教えを人に伝えることに
生涯を捧げることとなった。
彼が教えを説いた地域、近江は、
たまたま商人の町であった。
同地には、
陽明学と親和性のある、
浄土真宗が深く根付いていた。
江戸時代は、武士の時代のようで、
実は商人の時代であった。
江戸幕府ができてからすぐ、
武士の生活を支えた農村経済が、
衰退・変質していく。
それを土台として武士の社会は、
徐々に貧窮していく。
それと反比例するように、
商業経済が発展していく、
商人たちが豊かな文化を
作り上げていった。
その結晶とも言える江戸は、
世界の経済学者の間では、
奇跡の都市とも呼ばれる。
その商人たちの聖地が近江だ。
中江藤樹という、
道徳的な芯軸をもった近江は、
江戸期の日本の中で、
豊かでもっとも道徳教育が、
行き届いた地域となっていく。
江戸後期から明治以降に至っても、
それは継承されていく。
中江藤樹が暮らした村、
現高島市の出身者を、
都会の大店たちは争うように、
リクルートし、社員として採用した。
ちなみに百貨店の「高島屋」は、
高島市の高島が名前の由来である。
陽明学は、浪速の大店が出資した学校、
「懐徳堂」でも教えられる。
江戸後期、その懐徳堂で学んだのが、
昌平坂学問所総長、佐藤一斎であった。
昌平坂学問所総長とは、
今でいう、東京大学の総長である。
この佐藤一斎塾の塾頭が、
佐久間象山であり、その下に、
吉田松陰であり、勝海舟が続いていく
佐藤一斎と直接面識はないが、
西郷隆盛は、
佐藤一斎に私淑しているといって、
はばからない。
維新の登場人物の多くは、
心学の徒であった。
一方、幕府の最後の老中にして、
大政奉還を企画した板倉勝静の参謀は、
佐藤一斎塾の塾頭の山田方谷であった。
山田方谷は、陽明学が生んだ、
史上最高の天才と言われる。
その方谷の弟子、三島中洲は、
大正天皇の先生であり、
この三島中洲の親友であり、
ともに一橋大学を立てたのが、
日本資本主義の父、渋沢栄一である。
昭和最大の陽明学者 安岡正篤は、
歴代首相のブレーンと呼ばれ、
玉音放送の文案を作ったのも彼であり、
「平成」の元号の発案も安岡だと言われる。
☞メモ
それほどまでに、
日本人の思想の一部となった陽明学が、
どうして現代人の目に触れないのか。
古本屋で、
戦前の教育関係の専門書を開いてみると、
そこには、「知行合一」「致良知」等の、
言葉が頻出する。
戦前の道徳教育の教科書には、
中江藤樹、その高弟、熊沢蕃山が紹介される。
しかし、戦中に、軍部により、
まずは中江藤樹が学校から消える。
理由は、
親孝行を前面に押し出す藤樹の教えは、
天皇への忠誠を純化したい当時の軍部の、
意向に沿わなかったらだそうだ。
さらに戦後、陽明学は、
軍国主義と一緒に、
巻き添えをくらい葬られていった。
形あるものは焼かれ、
形なき言葉や思想は、
暗い思い出したくない思い出とともに、
人々の心の奥にしまわれた。
大阪大学名誉教授、
経済学者 森嶋通夫はいう、
江戸期の心学等々によって育まれた、
日本人の属性(アイデンティティ)が、
今の日本の経済的成功の、
大きな要因の一つとなっている。と。