超訳伝習録第10話「聖人学んで至るべし」

弟子の希淵が先生に尋ねました、

私のような凡人も、

修行を積めば、

いつか聖人になれるのでしょうか?

 

先生はこう言われました、

 

 もちろん、なれるだろうよ。

 

 それより君は、

 聖人とは、

 どんな人だと思っているんだい? 

 少し勘違いしているようだ。

 

希淵の返事を待たずに、

先生は続けられました。

 

 聖人とは、

 心に少しも不純なことがなく、

 その心が、

 いつも天理で満たされている人のことだよ

 

 前にも説明したように、

 人は、教えられなくとも、

 人として何をすべきかを知っている。

 それを良知という。

 良知を良心と言い換えても良いし、

 仁の心といっても良いかもしれない

 

 その心、それがまさに天理だ。

 その天理たる良知にいつも、

 満たされている人のことを、

 聖人というのだ。

 

 いつも私心に惑わされることなく、

 常に良知に基づき話し、行動できる人。

 

 そういう人を聖人というのだよ。

 

 銅や鉛などの混じり気のない金のことを、

 純金という。

 

 純金には、大きなものもあれば、

 小さなものもある。

 でも、純金であることには変わりはないだろ?

 

 尭・舜・文王・孔子・禹・湯王・武王、

 彼らは皆、聖人と呼ばれるが、

 それぞれに能力は違うが、その心が、

 天理で満たされていることに変わりはない。

 だから彼らは皆、聖人だ。

 

 彼らだって、初めから常に、

 天理いわば良知に従い、

 行動できたわけではない。

 

 しかし、努力をし、その結果、

 いつも良知に従い、

 行動できるようになったんだよ。

 

 現代で最も優れた経営者に、

 稲盛和夫という人がいるだろ?

 彼は、今でも毎晩、寝る前に、

 鏡に映る自分向かって、

 この馬鹿野郎、お前は何ても、 

 傲慢なんだ、反省しろ!!と

 叱咤するんだそうだ。

 そんな努力をしているうちに、

 他人から見れば、

 常に良心で行動しているような、

 そんな人になっていくんだよ。

 

 稲盛和夫は他人から見えば、

 それこそ聖人に見えるかもしれないが、

 本人は、まだ、自分は私心が多いと、

 反省しているという。

 

 だから、

 尭・舜・文王・孔子なんかも、

 周囲や後世の人は聖人と呼ぶが、

 本人たちは、

 そう思っていなかったのかもしれないね。

 

 君は、自分の中に私心に気がついているね。

 そして、良知では、

 私心で行動してしまっていることに気がつき、

 悔やんでいるんだね。

 

 それで良いんだよ。

 自分の私心に気がついて、凹んでいる。

 それは君が正しい学びをしている証拠だよ。

 

 そうやって、一つづつ、

 自分の私心をとりのぞいいくことだ。

 その分だけ、君は聖人に近づいているんだよ。