(弟子の)陸澄がこんな話をしました。

 

私が単身赴任をしていたときのことです、

家族から手紙が届いたんです。

 

手紙には、「息子が病気で危ない」、

そう書いてありました。

 

私はもう、気が動転してしまい、

どうして良いか、

わからなくなりました。

 

 

  

先生は少し間をおいて、

陸澄に語りかけました。

 

 

 

ーそんな時こそ、

 普段の修行の成果を見せるときや。

 

 もし、そんなときに、

 心を乱れままにしておくんやったら、

 

 もうここに来んでも良えよ、

 学ぶことなんてやめてしまった方良いな。

 

 エエか?

 こういう時こそ、心を落ち着かせて、

 自分が何をすべきか、

 どのように振る舞うべきかを考えてみるんや。

 

 親が子どもを心配するのは、

 当然のことやから、

 何ら悪いことはないと、

 ただただ、

 いたずらに心配してしまう。

 

 ここに大きな問題があるんや。

 いや、ここにこそ、

 大きな問題が生まれるんや。 

 

 行き過ぎず、また、少なからず、

 ちょうど良い状態でこそ、

 良知は働くんや。

 

 

 我が子を心配するのは当然やから、

 何ら悪いことはないと思って、

 感情のままに行動してしまう。

 

 そこに行き過ぎる心があれば、

 その心こそが、私心であり、

 その私心に基づく行動が

 いつも周囲に問題を起こしていくんや。

 

 世の中で、

 起こっている問題を見てみ、

 それはいつも行き過ぎた感情が、

 原因になってると思わんか?

 

 例えば戦争だってそうや。

 戦争ほど、この世で、愚かなことはないけど、

 

 そのきっかけ、我が子を思う、

 親の心やったりするんや。

 子を想う親の心は悪いもんやない。

 

 だけど、その心が行き過ぎたところから、

 凄惨な事態は起こっていくんや。

 

  当事者は、

 自分は何も悪くない、

 自分は、良心で行動してる、

 当然の行動をしてると、

 そう思ってるやろ?

 

 そんな行き過ぎた心が、

 いつも大きな問題を起こすんや。

 

 どんな感情も、

 それが程よいくらいなら、

 何ら問題はないんや。

 

 また、その感情が、

 足らないからといって、

 問題になることもあまりないな。

 

 問題になのは、

 その感情が行き過ぎたときや。

 

 良知がよく働くようにするには、

 いつも程よい程度に、

 心を留めておくことが、

 必要なんや。

 

 まだどのような感情にも、

 支配されていない、

 そんなフラットな、

 心の状態のことを、

 「未発の中」とか、

 「中」とか、「中庸」っていう。

 

 この「中」の状態であればこそ、

 良知はよく働くんや。

 

 いつ何時も、

 「中」の状態で居られれば、

 人はいつ何時も、良知で生きられる。

 

 

 例えば、武道の達人は、

 構えに力みがなく、

 自然体でいるやろ。

 

 その体勢でこそ、

 敵がどのように攻めてきても、

 さらりと攻撃をかわし、

 とても滑らかな動きで、

 相手を投げ飛ばせる。

 

 そのような、

 力みのない状態になるには、

 長い修行がいるやろう。

 

 これは心も同じこと。

 

 力みなく、どこにも偏りなく、

 そして、弱すぎず、行き過ぎず、

 そんな心の状態で常にいること。

 

 この「中」の状態、

 これが目指すべきところやな。

 

 これが聖人の境地というやつや。

 

 

  >>(動画)中の状態を作ったら、スゴいパワーが出た!!