(▶️第13話からの続き)

 

聖人は、世の人すべてのことを

 我が子のように慈しんでいるんや!

 

 そんなの言われたら、

 ちょっと引いてまうやろ?!

 

うぁ、そんなん、絶対無理やんて。

 

 でも、そういうことやないねん。

 聖人も最初からそうやったわけない。

 

 堯、舜、禹という、

古来の聖人たちの時代から、

 変わらず言われてきたことがある、

 

 それは、こういうことや、

 

 自らの内なる良知の声は、

 ほんと小さいから、

 よく意識していないと、

 つい見失ってしまいそうになる。

 

 逆に良知に対する私欲・私心の声は、

 ものすごく大きい。

 ちょっと気を抜いたら、

 すぐに私心に惑わされてまう。

 

 怒りの感情なんかも私心なんだけど、

 

 怒ってるときなんかは、

 そりゃあ、良知の声なんて、

 全然聞こえない。

 

 例えば車の運転をしているとき、

 待ち合わせに遅れそうだと、

 焦っているときに、

 

 前に割り込みをされたとする、

 そこで、カッとなって、

 思わず怒鳴りそうになる。

 

 でも、すごく時間に余裕があるときに、 

 前に車が割り込もうとしてきた、

 

 時間に余裕があるから、

 取り立てて、イライラもしない。

 

 ふと見ると、前の車には、

 初心者マークをつけた若い女性が、

 赤ちゃんを乗せてたとする。

 

 そんなときは、どうぞとばかりに、

 車間距離を開けてあげ、

 割り込みやすくしてあげたりする。

 

 でも怒っているときは、

 そんな風には、とても思えない。

 

 要は、良知の声はすごく小さいけど、

 私心は、すぐ暴走しがちで、

 そうなったら、

 良知の声なんて、

 全く聞こえなくなる。

 

 これは、凡人も、聖人も、

 同じ人間やから一緒やねん。

 

 それを聖人は、

 そういう私心に惑わされないよう、

 普段は、

 次のようなことに気をつけてるんや。

 

 それは5つある。

 

 まず一つ目、

 親をみるとき、または我が子を思うとき、

 ちゃんと今、自分は、

 情愛の心を抱けているか?

 

 2つ目、

 上司と部下の間では、

 ちゃんと自分は、

 約束を果たせているか?

 

 3つ目、

 夫婦の間では、

 ちゃんと、自分は、

 それぞれの役割を果たせているか?

 

 4つ目、

 先輩・後輩の間では、

 ちゃんと先輩は後輩の面倒をみて、

 後輩は先輩を立てているか?

 

 5つ目は、

 友達のことを、

 ちゃんと自分は信じ切れているか?

 

 この5つをちゃんとできているかを、

 考えているんや。

 

 この5つに背いていると、

 口でいくら自己正当化してみても、

 心のどこかに苦しさがあるはずや。

 

 この苦しい気持ちが、

 良知の声やな。

 

 この声に正直に、誠実に、

 答えていくと、

 こんなにすがすがしいことはない、

 すごく晴れやかな気持ちになる。

 

 伝説の聖人、尭・舜に、

 夏・殷・周という、

 世の中がすごく平和だった時代は、

 みんなこれが当たり前やったんや。

 

 先生はこのことを教え、

 生徒もまた、これを学ぼうとした。

 

 そして、どの家庭でも、 

 これが大事やとわかってたんや。

 

 このさっきの5つを、

 当たり前のようにできている人を、

 聖人と呼び、

 

 この状態であろうと、

 努力しそうあろうとする人を、

 賢人と呼んだ。

 

 逆に、いくら能力があって、

 ルックスがすごく良かったとしても、

 それができてない奴は、

 不肖者(愚かな奴)と言われたんや。

 

 これは、身分の高い者から、

 低い者まで、

 都会の人も、田舎の人も、

 

 皆、同じように、

 さっきの5つの状況で、

 

 みんなの心の中にある、

 かすかな良知の声に、

 しっかり耳をすませ、

 

 いつでも、それに忠実に、

 自然と行動できるように、

 務めたんや。

 

 

 

 外にではなく、

 間違いなく、

 自分の心の中にも、

 確かにある、

 良知の声、

 

 それは天の声、

 聖人の声なんやで。